『春を抱いていた』が終わりましたね

春を抱いていた 14 (スーパービーボーイコミックス)

春を抱いていた 14 (スーパービーボーイコミックス)

春抱きが終わってしまいました。
春抱きが終わる日が本当に来るなんて、思っていなかったです。『美味しんぼ』みたいに、ずっと続いて行くと思ってました。やおい界の『ゴルゴ13』みたいに、ずっとずっと続いて行くと思っていました。

(以下死ぬほどどうでもいい思い出がたり「新田せんせいとオレ」)
初めて新田先生の漫画を読んだのは私が高校生の頃でした。

青年誌のようなドスコイ絵柄。BLにしては奇抜な舞台設定(AVとかホストとか)。テンションの高すぎるものがたり。思わず音読したくなる珍妙な、だけどちゃんと筋の通ったセリフたち。
「なんだかわからんが、この漫画はとにかくスゴイな」と、友達と夢中になって読みました。私は絵柄を重視して漫画を読むタイプなのですが、けっして好みではない画風の新田先生にファンレターを書く程度には、新田漫画に心を奪われていたのです。
(死ぬほどどうでもいい思い出がたり終わり)


個人的に、春抱きの最大の魅力は、その真剣さにあると思います。やおいにかまけてゴミのような日常を送るわたしには、漫画の中のキャラたちの真剣さは、いつでもギラギラとまぶしかった。あんな設定なのに、あんなトーンワークなのに、あんなビキニパンツなのに、現実と向き合いたくましく前をむき歩いてくキャラクターたちは、いつでもまっとうで、真剣そのものでした。仕事について同業者と熱い議論をかわすときも、恋人のパンツについて考えるときも、いつだって同じ熱量で、いつだって全力投球、真剣そのもの。それが春抱きでした。それゆえに岩城さんと香藤くんの恋は真剣勝負のようで、心地よい緊張感にあふれていました。何巻になっても中だるみなく。
真剣だから人間くさく葛藤する。佐和さんが番外編「マザーズ・ルージュ」で『春を抱いていた』の構想を語るとき、「葛藤」というキーワードが出ました。こじんてきに、春抱きは、「葛藤」を描く物語であったのだと思っています。
私は、BLにおいて大切なのは、「葛藤を描ききること」だと思っています。BL作品のMY三本柱は「尊敬、葛藤、思いやり」です。どれが疎かになっても、だめなのです。私の理想の、「対等を目指す」やおいにならないのです。この三本柱をバランスよくクリアしてくれた香藤×岩城カップルのマトリクスは、ある意味最強でした。

最後まであの高すぎるテンションを持続させたまま、春抱きにエンドマークをつけられた新田先生は本当にすごい。
ほんとうにほんとうにすごい。

ただ、皆さんご存知のとおり、いろんなことがあって、最終巻は別の意味の緊張感をもって読者の手に渡ることになってしまいました。あれだけ純度の高い人間関係を、ストーリーをつむいでいた新田先生にとって、これほど無念なことはなかったと思います。

今回の問題に先生が向き合いきった答えが、この春抱きの最終巻にあるのだなと思いました。その答えもまた、このうえなく真剣なものでした。繰り返しですが、私が春抱きを愛しているのは、作品の持つ真剣さゆえです。先生が当初、考えていた物語の結末とは違ってしまったと思いますが、私はこの結末もまた、違和感なく受け入れることができました。先生の真剣さゆえだと思います。

長期連載、ほんとうにお疲れ様でした。
ああ、春抱きは本当に面白い漫画だった。岩城さんと香藤は、本当にいい関係だった(「いい関係だ」、と現在進行形で語りたい)。見ていると幸せになれた。時に勇気がもらえた。彼らのおかげで問題意識が持てた。何かを真剣に考えるようになった。人生のきっかけをもらえた。
そんな人はきっと、すごく少なくないんじゃないかと思います。


ああ、春抱きは本当に面白い、面白い漫画だった。
今はそれでいい。あと思うことは、先生にお手紙で伝えようと思います。


(だからといって、先生が実際にされたことについて、全部を肯定しようとは思いません。ベテランの漫画家として、あまりに無邪気であったとも思います。編集さんが見過ごしていたというのも、どうにも納得がいきません。広告写真をコンテとして流用して写真を撮ったり、絵を描いたりというのは、業界では日常茶飯事のような気もしますが、先生のやり口は、あまりにも無邪気です。しかしながら、BLは、ほんの数年前まで二次創作同人の受と攻の名前だけ挿げ替えて商業出版していた業界です。何もかもがグレーです。今後、創作の現場がどうなっていくのか、一読者として見守りたいとおもいます)