『揺れる吐息に誘われて』/和泉桂

揺れる吐息に誘われて (リンクスロマンス)

揺れる吐息に誘われて (リンクスロマンス)

言葉責めの難しさについて改めて考えさせられた一冊。


和泉桂てんてーの小説には、いつもギリギリの理由付けがある気がする。今回、チラ読みしたときに、余りの攻・海江(カイエ)の敬語言葉責めっぷりに若干ついていけないかも……との不安を抱いていたのだが、この「言葉責め」ぶりにもきちんとした理由付けがあった。受・志信(シノブ)の「ひどくしてほしい」とのリクエストに答えて、ああいう形となったのだ。しかし、あとがきで作者本人が「敬語言葉責めに激しく萌えてしまって、ノッてしまった」と書いているように、本文からもその暴走ぶりが読み取れるのも事実。
私は小説を読む際に、何故だか作者の思い入れを感じたくないタイプである。このシーンで作者はノっている、とか、このシーンは作者のお気に入り、とかそういう背景を一切排して文章を楽しみたいタイプ。逆に漫画の場合は、画面から作者の熱意や絶好調ぶりが感じられるのは好ましいと思ってしまう。
他の誰かも書いていたけど、おそらくこういう風に思うのは、「小説(文章)なら私も書けるけど、漫画は逆立ちしても描けない」からなんだろうね。もちろん、小説に関しても私はド素人で、えらそうなこと言える立場じゃないんだけど……。
話がズレた。
和泉てんてーの小説には、いつも自暴自棄になる受が出てくる気がする。自暴自棄の受大好き。しゃべり方も男らしいし、仕事もできるがんばり屋さんの受は結構好感度大。だが、萌えるかといわれると、そーでもない。そこまで強いキャラクター性は感じない。うーん。

それにしても友達のいない受って多くないか?
ボーイズラブ界には「攻と出会うまで特定の友達すらいなかった」という設定が多いような気がして気になる。それってかなり寂しい人生じゃないか? そこまで受をかわいそうにしたいか? 私にはそれが疑問である。 



この本の感想は帰ってからしっかり書く。